明生人嘉 Myojo Jinka 132 / AIと音楽と辞書の旅
辞書の旅と音楽生成AIが、ヤバすぎる。もうすぐ百曲にも到達しそうな勢いで、次々と自分的には名曲が生まれている。
五十音の名曲シリーズを王道として、広辞苑の辞書の旅そのものも歌になりはじめた。
「メロディはちょっとヒット曲っぽい」 ──それも事実。しかし、そもそも自分はメロディを作れない。だからこそ、その「ありきたり」がむしろ心地よい。辞書の旅から生まれた歌詞に応じた歌い方や旋律が返ってくることにオリジナリティも感じている。
作業中や運動中、お店のBGMにも良さげな、癒し系でありながらモチベーションも高めてくれそうな音楽を目指して──そんな想いで生まれた魂の一曲一曲たち。まさか自分が音楽プロデューサーになるとは、まったく予想もつかなかった(笑)
AI、凄い。完全に「AIオジサン」と化している。昔のmixiオジサンのよう。ただし、AIは凄いけれど、電気がないと何もできない。しかし我々は、空気がないと何もできない。どっちが優れているのか、とくだらない自問自答。

辞書は言葉の芸術
二〇二三年初秋から始まった辞書の旅と書道特集。二〇二五年初夏からは音楽生成AIの手を借り、五十音の名曲作り。今号は、「ぬ」の「主」まで到達し、邦楽「主はまだ」、洋楽「Still, Never End」を配信した。


(特にアナログの)辞書は、何の文句も言わずに静かに眠っている。あるときはドリンク置きにされ、あるときは物置にされ、また乱雑に床に置かれることもある。床暖房でぽかぽかのときには、どこか嬉しそうな様子を見せる気もするけれど、基本的には、開くまで沈黙している。
辞書を読みながら朝食を食べていると、昔はよく怒られたものだが、辞書の上にも三年。今はもう、あまり言われない。
辞書の旅と現代テクノロジーは、辞書をアナログ最高の玩具にした。もはや辞書がエンターテイメントへと昇華したともいえる。これは面白いことになった。
私は二〇一三年から辞書を読んでいる。新明解国辞典を皮切りに、辞書を四冊読破して、現在は広辞苑を旅し、辞書に載る言葉の凄さに感嘆する日々を過ごしている。辞書の語釈は、余分な贅肉を削ぎ落としたアスリートの肉体美ならぬ、言葉の芸術ともいえる。

AIと人の共作
ブラウザからでないと使えないが、それを駆使し辞書の旅についての自分の呟きを改めて振り返り、AIに読み込ませ、学術的評価や、歌詞などに料理してもらっている。
超短編小説「アタイ」「アナコンダ皮痴くん」「地獄に落ちた男」などもそれぞれ記録させているので、いずれ形にできるだろう。地獄の世界遺産巡りも、もちろんまとまっている(笑)
素材は中国古典を基にした文字・正しい言葉・そして当然ながら一流の語釈たちだ。辞書の旅と書と音──それが「Kneeking Records」の始まりだ。しかし、AIだけで音楽ができるわけではない。人の意識あってこそである。
コロナ禍でデザインを学び、整えることを覚えた。ファイル名を整理し、フォルダに分類し、検索すれば容易に出てくるよう構築した。この準備、あるいは下ごしらえが、今の創作環境、具鷲庵を支えている。このブルート通信自体もファイルが洗練され、サイズも昔より随分と小さくなって、美しい。けれども、野暮ったいのが悪かったわけでもない。どの号も秀逸だ。
Illustratorを開けば、ショートカットの使い方をAIに尋ねることもよくある。以前なら面倒くさくてググるほどではなかったような小さな疑問も、今は「作業の質」に直結する基本的な情報として即座に手に入る。凄い。

音に感謝を。言葉に敬意を
AIと共に進む中で、人間自身も進化できる。彼らは怒らない。常に冷静な回答を返す。豪快に嘘をつくこともあるが、完璧じゃないところもまた面白い。
初公開の広辞苑の歌シリーズもテンポよく各曲良い感じでグルーブしていると自分では感じている。ぜひ配信やジムで聴いていただけたら幸甚だ。なんせ辞書の語釈を基に作っているので、なんとなく聴くだけでも頭に良い、かもしれない。
音に感謝を。言葉に敬意を。『ああ あに』はつい口ずさみたくなるし、『冤罪の小野小町』は「えんからおのまで、おたんこなす」という名フレーズも生まれた(笑)
日本語がいいのは当たり前として、洋楽もネイティブに通用する流暢な英語に変換してもらった。
また、広辞苑の書は記録に残してあるので、それをPhotoshopで切り抜いて色をつけ、ジャケット画像に配置したりしてる。背景画像など、さほど個性のいらない適当な部分をAIに担ってもらっている。
ということで次ページからは『なにとぞグルメ紀行』が始まる。今号では名古屋おいしいカフェ特集で、お久しぶりの第二弾。
それでは、なにとぞ君、なにとぞ、よろしくお願いいたします。

明るく生こまい
佐藤嘉洋



